01:03 2018年09月26日
ロマノフ王朝最後の皇帝一家

露日戦争からロシア革命まで

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リュドミラ サーキャン
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東京・駒込にある東洋文庫ミュージアムで、今年が1917年のロシアでの2つの革命勃発100周年にあたっていることから「ロマノフ王朝展:日本人の見たロシア、ロシア人の見た日本」が開かれている。展示品の数々は、日本との相互関係の観点からロマノフ帝国の勃興と凋落を物語るものだ。

すでに宮城のリスナーAさんは見学されたとのことだが、我々も、ロシアにおける君主制の打倒をもたらした100年前の出来事を振り返り、そこで日本がどんな役割を演じたかを考えてみたい。

19世紀末、ロシアでは、すごい勢いで工業が発展した。生産の集中度において、ロシアは20世紀初頭までに、欧州で第一位に躍り出た。国の通貨ルーブルは金本位制で、兌換通貨となり、その事は国外からの資本の流入を強めた。ロシアが、東方に大きな関心を示し始めたのは、そんな時だぅた。極東でのロシアの政策を活性化する力となったシベリア横断鉄道の建設が、全線で続いていた。シベリア開発のためには、太平洋への出口が是非とも必要だった。

一方当時、発展する工業と遅れた農業との間には、巨大な格差が生じており、大量の失業者や 労働者及び農民が感じる恐ろしいばかりの不公平感は、大規模な抗議運動の土壌を作り出していた。革命の機運は、すでに広がっていたが、ツァーリ(皇帝)の政府は、そうした事実を自分達への脅威とは捉えず、明らかに過小評価していた。そんな時に、皇帝となったのがニコライ2世(1894-1917)だった。彼が帝位に着くまで、ロシアは、巨大な官僚システムを持った絶対君主制国家だった。

日本艦隊によるポルト-アルトゥール(旅順)とチェムルポ(済物浦、仁川の旧称)でのロシア船への奇襲攻撃と、それに続く1904年1月の宣戦布告は、ロシア人には恥知らずな挑戦と受け止められ、国内では、異常なほどに愛国的感情が高まった。当時日本は、ロシア人の大部分にとって、取るに足らない、相手にならない弱小国だと受け止められており、日本との戦争は、勝利が運命づけられたものと考えられていた。しかし、バルチック艦隊の殲滅、そして旅順包囲作戦は、日本の艦隊が、広大な帝国に散在する巨大なロシア軍よりもっと優れたものである事を示した。
露日戦争での敗北は、ロシアにおける革命的高揚の唯一の、あるいは最も重要な理由ではなかった。とはいえ、ロシアの歴史学者でロシア科学アカデミーロシア史研究所主任研究員のキリル・ソロヴィヨフ氏は「この出来事の間の関係性を否定することはできない」とみなしている。

以下、ソロヴィヨフ主任研究員の意見を御紹介したい。

「露日戦争の敗北が、政府の威信を台無しにし、国の権威に打撃となった事は言うまでもない。戦争が始まるまで、ロシアの最上層部の多くの代表者達は、日本をロシアに対抗する能力を持った深刻な敵とは受け止めていなかった。当時『小さな勝利をもたらす戦争』と言われていたのも偶然ではない。しかし戦争は、軍を緊張させ緊縮財政をもたらす。そしてロシア国内において政情不安が高まっている条件下で、戦争は、社会的混乱を加速化させる追加的な要因となった。敗北は、当然ながら、ロシア社会にマイナスとして受け止められ、日本政府と日本社会は、この戦争を通じて自己評価をかなり上げ自信を持った。ロシアは、直面する衝突にどれだけ準備できているのか。あれこれ考えなければならなくなった。事実上、艦隊を丸ごと失い、それらを復活させる必要があった。それには巨大な財政支出が求められた。露日戦争は、軍の再軍備及び軍改革に向けた刺激となった。実際、軍事全般の組織が見直された。このように露日戦争は、1905年の革命的出来事に対してというよりむしろ、国のさらなる発展、とりわけ国防力に関連した事の発展に影響を与えた。」

露日戦争と「ツシマ(対馬)」という言葉は、ロシア人水夫の男らしさとヒロイズムのシンボルとなったばかりでなく、苦い敗北の思い出として人々の心の中に残った。一方、何千人もの兵士や水兵が命を落とし、あるいは捕虜となった事は、帝政権力に対する失望感と批判を強める結果となった。国内は動揺しだし、モスクワやペテルブルグでは、組織的性格を持ったストライキが起きるようになった。最もラジカルな立場を取る政党は、君主制の廃止を求めていた。1905年のロシアの最初の革命は、より社会を強く震撼させた1917年の革命の前触れとなった。そしてこの革命は、何百年もの間ロシアに存在していたあらゆる統治システムの崩壊をもたらしたのであった。

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歴史, 露日関係, ロシア
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