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    ロシアに残った日本兵「残ったこの片目で日本が見たい!」

    © 写真: Artyom Kurtov
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    リュドミラ サーキャン
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    ロシア欧州部レニングラード州のポギ村に、ピョートルという名の一人暮らしの年金生活者が住んでいる。もし彼が、日本生まれのタナカ・アキオさんでなかったなら、何も驚くことのないロシアの片田舎の老人にすぎない。彼は今年89歳だが、70年も日本に戻っていない。しかし故郷を夢見る気持ちは大変強い。彼を取材した記事が、週刊新聞「論拠と事実∸サンクトペテルブルク」に先日掲載された。また編集部は、彼の存在をペテルブルクの日本総領事館に伝え、彼が祖国に帰る手助けをしてほしいと要請した。

    スプートニク日本

    同紙のアルチョーム・クルトフ記者は、次のようなタナカさんの言葉を伝えている-「残った片目でひと目でも日本を見てみたい!私の祖国がどんな風に変わったか、日本人が今どんな生活をしているのか見てみたい。特に桜の咲くところを見たい。桜は私にとって、ロシア人にとっての白樺のようなものだ。ただの木でもなくシンボル以上のものだ。私にとって、生まれや歴史、根っこにつながる何か聖なるものだ」。

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    © 写真: Artyom Kurtov
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    クルトフ記者は、スプートニク記者に対し、次のように話している-

    タナカさんへの取材は、全くの偶然だった。『ヂェツコセリスキイ』ソフホーズについてのルポルタージュを作っていた時、隣の『フョードロフスコエ』ソフホーズの働き手の一人が彼らに土地を寄贈し、その人物が日本人だと知ったのがきっかけだった。この情報に、私は興味を抱き、彼のことを探し始め聞いて回り、全部で通りが4つしかない村に行って、ついに彼と会う事が出来た。彼は今、ピョートル・タナカと名乗っている。彼は私に、自分の人生について語った。今年の8月に、彼は満90歳になる。我々は、彼の秘められた最大の夢がかなうよう手伝いたいと強く思った。

    タナカ・アキオさんは、1927年北海道の江別に生まれた。父のタナカ・トミイチ氏は、江別と札幌に旅館を所有していた。母は、アキオさんが幼い時に亡くなっている。その後、父は再婚。アキオさんと継母との関係はうまくいかなかった。17歳になり学校を終えるとすぐ、彼は、志願して関東軍に入隊、彼本人の言葉によれば、前線では死を恐れぬ戦いぶりで、金の星の勲章をもらい、軍曹となった。1944年彼は、砲弾の破片で負傷し、片眼が見えなくなった。そして1945年8月、関東軍60万の将兵と共に、ソ連軍の捕虜となり、中国からハバロフスクに送られた。

    • 軍人捕虜
      軍人捕虜
      © Sputnik/ Viktor Temin
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      © Sputnik/ Evgeniy Haldei
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    軍人捕虜

    タナカさんは週刊新聞「論拠と事実」のクルトフ記者に、終戦後の状況について次のように話している-

    10年間、ラーゲリで過ごした。第16収容所だった。他の軍人捕虜と一緒に、森林伐採作業をした。私達は、殴打されたりせず、食事も時間通り与えられ、扱いは良かった。その後、捕虜の解放が始まり、兵士達は船に乗って日本に帰還して行った。一方ほとんどすべての指揮官は、現地に残った。我々は、祖国に帰れば裏切り者として絞首刑となるか、銃殺されると信じていた。

    ラーゲリから解放された後、タナカさんは、ウラジオストクに移り、そこでソ連のパスポートを取って、アキオに代わりピョートルというロシアの名前になった。ウラジオで彼は、エンジン係となる勉強をし、旅客船「イワン・クリビン」号で働き始めた。1960年代半ば、タナカさんは、ウラジオから今度はレニングラード州に移り、ソフホーズ「フョードロフスコエ」での仕事を得た。

    田中さんの東から西への道のり
    © Sputnik/ Ekaterina Bulanova
    田中さんの東から西への道のり

    ここでの生活をタナカさんは、次のように回想している-

    多くの職業を経験した。牛の放牧もしたし、ボイラーマンも、電気工もやった。そんな風に過ごし、毎日があっという間に過ぎて行った。良心的な働きでだと評価され、何度も、黒海沿岸の保養地で無料で休暇を過ごした。ソフホーズでは18年働き、年金生活に入った。

    現在タナカさんは、ポギ村の小さな一部屋のアパートに一人で住んでいる。その長い人生の間、彼は何度か結婚したが、すべての妻に先立たれた。子供達については、語ろうとはしなかった。彼が頑固に話そうとしなかったのは、このテーマだけだった。

    日本から離れ長い年月が流れたが、タナカさんは、自分の日本の親族を見つけたいとの希望を失ってはいない。彼は、次のように述べている-

    1970年代に、レニングラードの日本総領事館に行って、自分の身の上を話したことがあった。領事館は、日本に連絡し調べてくれた。それにより、父は大分前に亡くなっていることが分かった。姉妹に手紙を書いたが、返事は来なかった。恐らく今も、私を裏切り者だと思って、許せないのだろう。我々の習慣では、捕虜となった者の家族は皆、私を恥と感じるからだ。

    第2次世界大戦終結から70有余年が過ぎた現在、90歳の誕生日を前に、タナカさんは、祖国をひと目見たいと願っている。日本総領事館は、日本国内でタナカさんの親族を見つけ出そうと努め、地元の慈善団体は、タナカさんの祖国訪問実現に向け、資金集めを始めている。

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