14:59 2018年10月19日
アンドレイ・ステニン氏アンドレイ・ステニン氏

路肩で焼失した車 「ロシア・セヴォードニャ」の報道カメラマン、アンドレイ・ステニン氏の死から4年

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2014年8月の初め、ウクライナ東部では、戦闘行動が活発な段階を迎えて進行していた。自らの主権を宣言したドネツク人民共和国の義勇軍が、ウクライナの軍や治安・情報機関など及び複数の民族主義武装集団に対し抵抗していたのだ。通信社「ロシア・セヴォードニャ」の報道カメラマン、アンドレイ・ステニン氏は、その郊外において完全な戦闘状態が進行していたスネジノエ市への訪問を計画していた。

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ステニン氏の同僚、アレクサンドルさんは、「アンドレイが出発したその日に、私は彼と会った。アンドレイがそこで何を撮影したいと思っていたのか、私は知らない。彼は自分の計画を特には伝えなかった。アンドレイがルノー車に乗り込み、彼らは出発した」と語る。

しばらくして、ステニン氏との連絡が途絶えた。ステニン氏がウクライナの軍や治安・情報機関などの捕虜になったのかも知れないと言われるようになった。動揺が広がった。多くの世界的メディアの特派員らが「アンドレイを解放せよ」とのメッセージを掲げた数々の写真と、関連するハッシュタグをつけた投稿がSNSで拡散した。

ステニン氏の公式の死亡日は2014年8月6日とされているが、4年前は、彼が帰ってくると誰もがまだ信じていた。しかし、8月20日からの10日間で、ステニン氏がドネツクから出発した時に乗っていたとの説明に一致する、砲撃を受けた自動車がスネジノエ周辺で発見されたことが明らかになった。現場へと続く途中の道の路肩で、ジャーナリストのグループがおよそ20台の焼き払われた乗用車を見つけたのだ。

目撃者となったアレクサンドルさんは、「一部の乗用車は押し潰されていた。上を戦車が通ったのだ。一部の乗用車の中には、複数の遺体があった」と回想する。「ある客席では3人の遺体が見つかった。乗用車のトランクでは、複数のレンズの残骸が発見された。車の近くには、アンドレイのシャツが落ちていた。確信を持って言えるが、車は捜索されたのだ。中にいた人も身体検査をされ、その後、焼き払われたのだ」。

焼失した自動車が停まっていた現場には、死亡したジャーナリストらの名前が記されたプレートがつけられた十字架が設置された。この地区にある学校の一つは現在、アンドレイ・ステニンの名を冠している。

ロシア捜査委員会のペトレンコ報道官は、ウクライナ政府が依然として、国際通信社「ロシア・セヴォードニャ」の報道カメラマンだったステニン氏の死に関与した人物に関する情報をロシア側による捜査に提供していないと発表。これらの人物のうち、一部について予審判事らが発見に成功し、証人として取り調べることができたと指摘した。ウクライナの軍人らが金目の品を求めて乗用車を物色した後、自らの犯罪を隠蔽する目的で乗用車を焼き払ったという事実も確認されている。自分たちの自動車が少し後に砲撃され、ジャーナリストらが中に乗っていた炎上する自動車のそばに停止したこの犯罪の目撃者らは、複数の民間用自動車に火をつけていたのが、ウクライナ国旗に見える袖章を制服につけた軍人らだったことを、自らの証言において一様に確認している。また、この目撃者らによって、この同じ地区にあった複数の戦車についても、ウクライナ国家親衛隊のものだったと証明された。

ステニン氏を記念して、国際通信社「ロシア・セヴォードニャ」は毎年、国際報道写真コンクールを実施している。今年の受賞者は、モスクワで今日発表される。今年、寄せられた応募作品数は6千、参加国の数は77に達した。

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