登録が完了!
に送られたメールからリンクに進んでください
加藤登紀子さん、

ロングインタビュー

ロシア料理店スンガリー、

ロシア音楽とコロナ禍における

活動などについてお話を聞く

「77歳になり、人生がますます面白くなってきたんです」と笑顔で語る加藤登紀子さんは、コロナ禍の中でも創作を続け、周囲の人々にエネルギーを与え続けている。ロシアの歌「百万本のバラ」を歌って広く知られるようになった加藤さんは、これまで露日友好のためにたくさんのことを行ってきた。最近、2021年のロシア文化フェスティヴァルが開幕したのを受け、「スプートニク」は加藤さんにインタビューをお願いした。加藤さんにとってとても大切なロシア料理店スンガリーについて、ロシア音楽と日本音楽の驚くべき共通性について、またコロナ禍におけるコンサート活動やその他の活動などについてお話を伺った。

半世紀以上の歴史を持つロシア料理店スンガリー
スンガリーは新宿でも、もっとも有名な場所にあるわけではない。しかも、コロナ禍の今、多くの外食店が試練のときを迎えている。しかしスンガリーに客が訪れない日はない。インタビューをお願いした日も、開店前にすでにテーブルはすべて予約で埋まっていた。しかも、加藤さん自身驚いているように、レストランの利用客のほとんどが若者である。しかしこのレストランが長い歴史を誇っていることを考えれば、レストランの人気は概して驚くべきことではない。ちなみにこのスンガリーは、フィギュアスケーターのエフゲニー・プルシェンコさんが東京でもっとも気に入っているロシア料理店でもある。
© Sputnik/Jenny Hollyway
© Sputnik/Jenny Hollyway

もともとレストランは1957年に新橋でオープンしたが、その後、京橋に移転し、1960年に現在の新宿に移った。しかし、このレストランの歴史はさらにその昔に遡る。

加藤さん:
「ここのお店がなぜできたかと言うと、私の両親が結婚してハルビンという町に行って、その時にロシア人と一緒に暮らしていたんです。スンガリーというのはハルビンの松花江の名前なんです。ですから、ロシア料理店だけど、スンガリーという、私たちの故郷の名前がついています。
あの時、戦争がありましたし、色々あったけれども、父がどうしてもロシアの文化が大好きで、このレストランを作ったんです。親がやっていたから、中学の頃にはいつもここに来ていて、ロシア語で話しかけてくれるコックさんとかがいて、遊んでいました。本当に私の好きな遊び場でありました。」

現在、レストランは加藤さんの姪の暁子さんが経営しており、東京にいくつもの店舗を構えている。現在のスンガリーの外観は、オープンしたときの姿とは違っているが、加藤さんは、お店の雰囲気は彼女が大学生だった頃のままだと語っている。

© Sputnik/Jenny Hollyway
こういう雰囲気でずっとスンガリーはやっています。(もし何か新しいものを加えるとしたら)本当だったら、ピロスマニ(『百万本のバラ』に登場するジョージアの画家)の絵を飾りたいですね。ピロスマニがワインを飲んでいて、絵を飾っていたような、そんな雰囲気の酒場、レストランにしたいなというのがあります。
加藤さん
「日露交流は父の夢だった」

加藤さんは、ロシアとの友好親善は、加藤さんの父親にとってとても大切な人生の事業だったと話す。

「私の父は、元々自分も歌う人だったけれど、スンガリーをやりながら音楽のビジネスもしていました。戦後、ロシア料理店協会というのをして、何度も何度もソ連に旅行に行って、ソ連との交流もすごく一生懸命しました。」

加藤さん
ハルビン鉄道 © 加藤登紀子

さらに加藤さんは、中でも、歌舞伎をロシアで広めたことは、父親のもっとも大きな功績の一つだと考えている。

「その中ですごく大きな仕事としては、歌舞伎をモスクワへ持って行きました。1961年のことです。アメリカに戦後初めて歌舞伎が行った次の年で、ロシア人に歌舞伎を見せたいと言って、私の父が歌舞伎公演を成功させたんです。それくらい日本とロシアとの交流が彼の夢だったんです。」

加藤さん
ソ連との出会いと
「百万本のバラ」のヒット
こうした父親のロシア文化への愛は加藤さんに受け継がれた。加藤さんが初めてソ連でツアーを行ったのは1968年。24歳という若さだった。

加藤さん:「その時、バルト三国からジョージア(グルジア)まで、7都市にコンサートで行ったんです。それは私にとって素晴らしい出会いで、素晴らしい旅だったんです。バルト三国のタリン、リガ、ビリニュス、それから、今のサンクト、その当時のレニングラード、ミンスク、モスクワ、そして最後に今のジョージアの町スフミでコンサートをやりました。」

こうして加藤さんは、まだ「百万本のバラ」が世に出る前から、ソ連中を周るようになった。そして、「百万本のバラ」が1982年に書かれたとき、加藤さんはこの歌が大好きになり、自分で日本語でも歌うようになった。

1987年、プガチョワと © 加藤登紀子
ロシアのポピュラーソングがこんなに日本人の皆さんに愛されるとは夢にも思っていなかったです。私が大好きだったので、ずっと歌っていたら、その強い気持ちが伝わってきて、90年ぐらいから大ヒット曲になって、約40年近く経って、今でも愛されている理由なのではないかと思います。
加藤さん

1986年にチェルノブイリ原発事故が発生したとき、加藤さんは父親とともにキエフに行き、苦しむ人々を助けたいと思っていたが夢は叶わなかった。加藤さんは、今でも、この夢を実現できなかったことを残念に思っているという。

「もう一つ残念だったのは、私の父は日本との関係も深いサハリンとウラジオストクでコンサートをしたいと計画していて、92年に、直前に亡くなりました。なので、私も92年に、サハリンのコンサートは実現しなかったけど、ウラジオストクでコンサートをして、父の写真もみんな持って行って、父が急死しましたということを皆さんにお知らせして、皆で追悼のコンサートにしてもらったんです。それが92年だから、もう30年近くになるんだけれど、2年前にはサハリンでもコンサートをやり、ウラジオストクでも再びコンサートをしました。」

加藤さん
ロシアの音楽と日本の音楽の共通点について
スプートニク

「百万本のバラ」は、ロシアの曲が日本でヒットした、あるいは逆に日本の歌が実はロシアの大ヒット曲になったという唯一の例ではありません。しかも、日本人の中には、「百万本のバラ」はもともと日本の歌だと思っている人はたくさんいますし、ロシア人の中には、たとえばロシア語版の「恋のバカンス」はもともとロシアの曲だと思っている人もたくさんいます。日本の音楽とロシアの音楽はなぜ似ていると思われますか?

加藤さん

それはロシアの文学の影響を日本のポピュラーソングが受けたからでしょうね。日本で初めてポピュラーになった、今から100年以上前の歌があるんですけど、カチューシャの唄というのがあるのね。この間のコンサートでも歌ったんだけど、カチューシャの唄っていうのはトルストイの「復活」がお芝居になって、ドラマになって、上映されて、上演されて、その中で歌われた歌で、それを日本人が大好きになったのね。

7月18日、Bunkamura オーチャードホールでのコンサート © Sputnik/Jenny Hollyway

加藤さん

それも、その前にツルゲーネフの翻訳が日本ですごく流行ったり、19世紀の終わりに日本が近代的な新しい時代になった時に、もちろんアメリカとの交流も、フランスとの交流も、オランダとの交流もあったでしょうけど、音楽と文学の影響はロシアの影響が一番大きかったの。その影響の中で、みんな新しい日本の歌を作ったり、文学を作ったりしてきた。私たちの世代もロシア革命も大好きだったし、尊敬しました。その革命に至る前のアバンギャルドの時代も大好きだったし。だからロシアの文化の影響は日本の文化にすごく大きな影響を与えてきた。そういうのはずっと歴史の中にあったと思います。

加藤さん自身、「百万本のバラ」は自分の曲の中でも一番好きな歌だと打ち明けている。加藤さんは、ロシアの有名な女性歌手アーラ・プガチョワのレコードで、初めてこの曲を聞き、その後、プガチョワを東京に招いた。1987年、2人は一緒に東京の中心部にある日比谷公園の大きなステージでこの歌をうたった。このときから、「百万本のバラ」は日本人の心を魅了し、「日本の」歌になったのである。2000年、加藤さんは返礼訪問としてモスクワに行き、プガチョワとともに2カ国語でこの歌をうたい、大きな成功を収めた。

「時には昔の話を」
100年の歴史を振り返るコンサート
スプートニク

7月にBunkamura オーチャードホールで大きなコンサートがありました。コンサートは「時には昔の話を」と名付けられていましたが、これは宮崎駿のアニメ「紅の豚」の有名なタイトル曲にちなんだものですね。コンサートのコンセプトについてお聞かせいただけますか?

加藤さん

紅の豚、ポルコ・ロッソの時代は100年前、ちょうどソ連が誕生して、第1次世界対戦が終わって、次の戦争が始まるまでの、ヨーロッパが一番厳しい時代だったけど、それでも人はこれからもっと飛行機に乗って、いろんな意味で新しい可能性があるという、夢がある時代でしたね。この間の私のコンサートは、どんな時代にも強い愛と生きることへの希望が溢れるような、そういう音楽を続けてきたという、100年の歴史を振り返りましょうというコンサート。

加藤さん

その中で、ちょうど100年余り前にトルストイの影響を受けて日本でカチューシャの歌が生まれたり、私が歌ってきたいくつかの歌の中にポーランドの歌とかハンガリーの音楽とか色んなものがあるんですけど、どちらかと言うと、東ヨーロッパからロシアのユーラシア大陸の音楽が大好きで、それを中心にプログラムを作りました。

私の歌手生活56年の中で一番大好きな曲だけを綴って100年という時間を感じながら、今から100年後も、私たちが今生きていることが語り継がれていくような未来があるか、私たちは未来に希望を与えることができているのだろうかというような意味で、このコロナで世界中が大変な時に、もう1回、素晴らしく生きた人たちのことを思い出しましょうという、そういうコンサートでした。

スプートニク

主人公ポルコ・ロッソ役を演じた森山周一郎さんが亡くなったという悲しいニュースも加藤さんにとって、コンサートのコンセプト作りにおいて重要な意味を持っていたのではないでしょうか?

加藤さん

森山さんが亡くなったことも今年、『時には昔の話を』の中に懐かしい男がいっぱいいますね、みんなまだ生きていますか、みんなはまだ元気で生きていますか、というような、そういう思いもこのコンサートにはありましたね。でも、森山さんは亡くなってしまいましたけど、きっとポルコ・ロッソは生き続けているだろうという気持ちです。

「巣ごもり日記」とコロナ禍における
フラッシュモブなどについて
スプートニク

パンデミックが発生した頃、しばらくの間、YouTubeのチャンネルで、「巣ごもり日記」という日記のようなものをされていましたね。とても面白くて、加藤さんにはブロガーとしての素晴らしい才能がおありなんだなぁと思っていました。なぜやめられたのですか?

加藤さん

今は『土の日ライブ』という私の番組をYouTube でするようになったので、巣ごもり日記的なことは終わらせました。あと、洋服を作り変えたりすることをはじめました。私の母が洋裁をする人だったので、私は子どもの頃、いつも横で手伝っていました。

スプートニク: コロナ禍の中、どうやってそんなに前向きでいられるのですか?また若さを保たれている秘訣を教えてください。

加藤さん:「秘密は何でしょうね。私も、去年コロナで仕事が全部キャンセルになったりした時に、すごく途方にくれましたよ。だけど、こんなに自分の時間がいっぱいあると思ってすごく嬉しかった。今できることをいっぱいやりたいと思って、いろんなことをスタートしました。例えば、絵を描くとか、書を書くとか、焼き物を作るとか、いっぱい趣味があります。」
スプートニク:「パンデミックが始まった頃にリリースされた『この手に抱きしめたい』という歌について教えてください。一種のフラッシュモブになりましたね。」

加藤さん:「『この手に抱きしめたい』という曲を去年の4月に YouTube で出して、色んな人が歌ってくれて、ロシア人も日本語で『この手にあなたを〜♪』って歌ってくれたんですよ。」
徳田修作さん(加藤さんのマネージャー):「それが2万回再生なんですが、そのうち1万回がロシアで再生されているんです。スプートニクさんがいちごたぬきさんを取材してくれて、いちごたぬきさんが加藤登紀子の話をしてくれて、それで再生されたのかなと思います。」
加藤さん:「カンボジアの人とか、ブータンの人とか、世界中の人がカバーしてくれて、その中にロシア人も入っているの。それは、私が南アフリカとかブータンとかカンボジアとか、いろんな国でコンサートをしてきたから、その友達たちに連絡を取って、『この手に抱きしめたい』という曲をいろんな人に歌ってもらって、それをリモートでくっつけて、 YouTube でアップしました。歌が他の言語にも訳されると嬉しいです。」
人生はオペラのようなもの:
「四幕目は一番面白いので、絶対楽しみたい」
スプートニク

最近、加藤さんは人生をオペラに例えて、「人生の四幕目」である今が、人生で一番面白い時期だとおっしゃっています。四幕目に至るまでのこれまでの時期はどのようなものでしたか?また四幕目は加藤さんにとってどのようなものだと思いますか?

加藤さん

一幕目は人生のスタートで、何がどうなるかわからないけど走り始めるもの。二幕目、25歳以降ぐらいに子どもが生まれたり、結婚したり、とても忙しい25年があって、50歳ぐらいからは、また再びもう一回、女として、歌手として、25年ぐらいとても楽しい時間があった。日本では起承転結と言うんですけどね。起は起こす、スタート。承はそれがキープされる、続く。三幕目になるとガラッとチェンジする。50歳ぐらいから、もう一回、子育ても終わって、歌手として一番活動した25年があったと思います。海外にも行ったし、いろんな国でコンサートもしたし。

そうしたら、やっぱり四幕目というのは、どんなお芝居でもそうだけど、今まで準備した、今までやってきたことが全部、今のレストランで言えば、仕込みが終わっていつでも料理を出せますよという状態。自分の中でたくさんの音楽が生まれて、いつでも出せる、どんなプログラムでも、世界中のものが私の中に体験としてあって、この四幕目がすごく楽しいと思います。

だから、四幕目を絶対楽しみたいという気持ちで迎えた時にコロナが来たけど、私は楽しめる材料をいっぱい自分の中で準備してきた、一番大事な時間だから、歌手として今できることを無駄にしたくないなと思って、コンサートもずっと続けてやっています。

スプートニク

パンデミックでつらい時期を過ごされている人々に何か伝えたいメッセージはありますか?

ニュース一覧
0
はじめに新しいものはじめに古いもの
loader
放送中
Заголовок открываемого материала
ディスカッション参加
には、承認または登録が必要です
loader
チャットで返信
Заголовок открываемого материала