【人物】「ロシア行きは運命だった」 日露で活躍のオペラ歌手、天野加代子さんにスプートニクが独占取材

© 天野加代子モスクワのドームムージキで「天野加代子とロシアの素晴らしい仲間達in Russia」を開催
モスクワのドームムージキで「天野加代子とロシアの素晴らしい仲間達in Russia」を開催 - Sputnik 日本, 1920, 04.08.2023
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独占記事
スプートニクの特派員はロシア日本の両国で活躍しているメゾ・ソプラノのオペラ歌手の天野加代子さんに東京のホテルでのコンサート前にインタビューを行った。天野さんはロシア語が全く話せないまま、初めてロシア(ソビエト)に来たときのこと、どのようなきっかけでロシアの古いロマンスを歌い始めたのかについて、また、ご自身の家族とロシアの思いがけない関係について、たくさんお話してくださった。そんな天野さんとの対談は、スプートニクにとってとても嬉しい言葉で始まった。
天野加代子さん: スプートニクは昔、モスクワ放送『ロシアの声』と言いましたよね。実は私はそこで「日本語で歌いましょうという番組」に何回も出ているんです。ですから、私にとってはとても身近な存在で、今こうしてインタビューを受けることがとても嬉しくて、これも何かの「スヂバー(編集:ロシア語で『運命』)かと、そんな感じがしております。
スプートニク:初めてロシアにいらしたのはいつですか。
天野加代子さん: ちょうどソビエトからロシアに変わる頃です。ソビエトとロシアの両方を知っているので、私はいろいろなことが起こってもあまりびっくりはしません。その時の様子も知っているし。
スプートニク: 当時のソ連、またはロシアの印象はどうでしたか?
天野加代子さん: 日本ではソビエトについてはあまり知られていませんでした。私がソビエトに来て、すぐに思ったのは、日本人と似ているなということでした。みんなはとても温かい。それからおもてなし! おうちに呼んでもらって、本当に温かくもてなしてもらう。すごく日本人と似ているな、というのが私の印象でした。ソビエト人、ロシア人という区別はなくて、私にとっては温かい素晴らしい方たち。そしてその時のお友達が未だにずっと続いているんです。だから私はいつも日本に帰るときに、「私は少しの間、日本に行くけど、すぐにロシアに帰ってきます」と。これが私の言葉でございます。
© 天野加代子モスクワ音楽院の建物の前で、後ろはチャイコフスキーの銅像
モスクワ音楽院の建物の前で、後ろはチャイコフスキーの銅像 - Sputnik 日本
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モスクワ音楽院の建物の前で、後ろはチャイコフスキーの銅像
© 天野加代子ペテルブルクの冬に憧れの帽子とミンクのロングコートきて、帝政ロシア気分の天野さん
ペテルブルクの冬に憧れの帽子とミンクのロングコートきて、帝政ロシア気分の天野さん - Sputnik 日本
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ペテルブルクの冬に憧れの帽子とミンクのロングコートきて、帝政ロシア気分の天野さん
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モスクワ音楽院の建物の前で、後ろはチャイコフスキーの銅像
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ペテルブルクの冬に憧れの帽子とミンクのロングコートきて、帝政ロシア気分の天野さん
スプートニク: ロシアと日本、どちらの国でよくコンサートを開催しますか。
天野加代子さん: ロシアの方が多いんです。一番多い時は1年間に68回コンサートをやっていました。そしてそのおかげで外国人では初めて、モスクワ国立アカデミーフィルハーモニーのソリストとして、契約を結ぶことができました。
実は、私はロシアでデビューしたんです。大阪音楽大学を出たところですぐ結婚して、そしたら夫がすぐにロシアに転勤になって、私は『やったぜ』って感じになりましてね。私の歌の先生が、日本人で初めてチャイコフスキーの歌曲をドイツ語で広められた方で、それが評価されてポリティッククラブ賞というのをとられて。その先生が歌われた歌、チャイコフスキーの「ドン・ジョヴァンニのセレナーデ」 は私の人生の中で、常に頭の中を駆け巡っていて、いつか歌いたいなと思っていました。そしたら転勤でロシアに来ることになりましたね。
日本ではとにかく全然仕事をしてなかった。オペラ劇場にも入らずにすぐ結婚して,子どももできました。ロシアにきてから素晴らしい先生方,音楽家の方々に出会え、またその方々から素晴らしいロシア人の人々も紹介していただき,素敵な出会いもありました、私はロシアのモスクワ音楽院の教授で,有名なオペラ歌手のガリーナ・アレクセイヴナ・ピサレンコ教授のおかげでロシアでデビューさせていただいたのです。感謝してもしきれません。
スプートニク: 歌手になる前にロシア語は勉強されていたのですか?
天野加代子さん: 全然していなかった。夫もロシア専門じゃなくて、ドイツ語が専門だったんでね。ソビエト時代は,当時一般の私たちにとって閉じられた国でしたから,私は,世界共通語だと思って、まずは英語を勉強していったのですが,当時ソビエトでは,英語の表記が全くなくて、びっくりしました。
本当にたまたまです! ロシアに行くことは運命だったのだと思います。私の曾祖父が日露戦争の時に若い少佐でした。戦争が終わったら、曾祖父はロシアからカメラとバヤン(編集:ロシア式アコーディオン)を持って帰ってきました。当時の日本にはカメラなんてなかったので、私の母はそれを見て、ロシアってなんてお金持ちの国だろうと思ったみたいです。その時はまだ帝政ロシアですが、母にとっては夢の国だったわけですよ。
また、私の子どもの頃に水野英子っていう人が描いた『白いトロイカ』っていう帝政ロシアについての漫画があったんですよ。私は当時のお衣装、毛皮の帽子、それからマフに憧れました。そのストーリーもすごく素敵だったし、その作家はすごく歴史を勉強してて、ちゃんとロシアの名前も、歴史もものすごくよく調べていました。今の漫画家にはそんな人はいないと思いますね。だから私はその影響で好きになったのです。
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スプートニク: 天野さんのレパートリーにはどんな歌が入っていますか?
天野加代子さん: 私は古いロマンスがすごく好きでね。レパートリーにはもう60曲から80曲ぐらいあります。もちろんクラシックもチャイコフスキー、ラフマニノフ、グリンカすべて勉強しましたし、オペラのアリアも勉強していますけれども、でも古いロマンスを知る、一番最初のきっかけになったのが、モスクワからフィンランドに行く列車に乗った時に夜行電車でね。ラジオからいい音楽流れていて、私はそれはフランスのシャンソンだと思ったんです。それでお友達になんてきれいなシャンソンでしょうって言ったら、これが古いロマンスだと教えてもらいました。日本で紹介されるロシアの歌というのが民謡しかなかったから、民謡じゃないのになんてエレガントだなって。これはまさに私の見た漫画の世界じゃないかって思いました。
スプートニク: ロシアの歌で、天野さんがお好きなトップ3を教えてください。
天野加代子さん: もちろん「黒い瞳」。それから、一番最初に私の先生に教えてもらった「あなたではない。私が熱烈に愛するのは」。ちなみに、私の先生はシャリアピンが恋した女性だったんですよ。当時90歳以上でいらしたんですけど、とても綺麗な先生で、シャリアピンが先生に書いたラブレターは、いまだにシャリアピン博物館にあるんです。もう一つは、私の先生が歌ったチャイコフスキー作曲の「ドン・ジュアンのセレナーデ」です。
スプートニク: スプートニクの読者にどんなメッセージを送りたいですか?
天野加代子さん: 私はロシアが大好きですので、また9月に戻ります。そして本当に自分の目で見たロシア、今の素晴らしいロシアを日本の人にもFacebook で紹介したいなと思っています。政治的なことは一切書きません。これからもよろしくお願いいたします。
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