17:55 2021年04月15日
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新型コロナの影響で、失職したり、リモートワークになったり、収入が減少して、落ち込んだり、あるいは鬱になったりという人もいる一方で、こうしたコロナ禍の新たな状況の中で、これまで忙しすぎてできなかったことに取り組んでいるという人もいる。日本語の通訳で、露日関係史の専門家であるスヴェトラーナ・ミハイロワさんは、数多くの記録文書を調査し、「ロシアの日本人の歴史」というユニークなプロジェクトを立ち上げた。自らの調査に基づき、スヴェトラーナさんは日本の外交官、ビジネスマン、文化人などの驚くべき運命をなぞり、そのモスクワでの足跡を辿る「モスクワの日本人」というオリジナルのツアーを考案した。

こうしたプロジェクトに着手するきっかけについて、またどのような場所を見つけることができたのかについて、スヴェトラーナ・ミハイロワさんは、「スプートニク」からの取材に応じ、次のように述べている。

「数年前に、NHKが司馬遼太郎の小説を基にした「坂の上の雲」というドラマの制作に携わったことがすべての始まりです。ドラマでは、海軍軍人の広瀬武夫が主な主人公として登場します。そのとき、わたしは広瀬武夫がペテルブルグで親しくしていたアリアドナ・コヴァレフスカヤについての資料を探すよう依頼されました。広瀬武夫は1899年から1902年にかけて駐在武官としてサンクトペテルブルクに滞在していました。彼は日本人にとっては国民的英雄であり、「軍神」とされている人物ですが、ロシアでは彼のことはほとんど知られていません。そこでペテルブルクにある海軍の記録文書や外交政策に関する資料を調べ、歴史家に話を聞かせてもらうことになりました。するとアリアドナの本当の苗字はコヴァルスカヤといい、機雷敷設の専門家であったアナトリー・コヴァルスキー大将の娘だったことが分かりました。1902年に、広瀬武夫はサンクトペテルブルクから帰国しましたが、1904年にアリアドナはニコライ2世夫人から日本行きを許可されます。しかし、ちょうどその年に日露戦争が開戦し、広瀬は戦死しました。それを知ったアリアドナは失意にうちにペテルブルクから父親の領地に移り住み、そこで残りの人生を孤独のうちに送りました。この物語を知って、わたしはロシアに滞在した日本人所縁の場所を探してみようと思いたったのです」。

調べてみると、実は日本人に所縁のある場所は少なくなかったという。スヴェトラーナさんのオリジナルツアーの1つは、赤の広場から始まる。スヴェトラーナさん曰く、「露日関係の歴史はまさにここから始まった」と言える。

1695年に、嵐によってロシアにたどり着いた最初の日本人の1人となり、ロシアで最初の日本語教師になった大坂谷町の質屋の息子、伝兵衛である。彼の話は広く知られている。

「数年間、極東を彷徨ったのち、モスクワにたどり着いた伝兵衛は、ピョートル1世と謁見し、伝兵衛はシベリア庁(当時のシベリアを治めていた中央国家機関)で調査を受けることになりました。当時、シベリア庁は赤の広場のすぐ横にあるゴスチヌィ・ドヴォールの中におかれていたのですが、伝兵衛はそこで日本について、また自分の身の上について詳しく話すことになったのです。彼の言葉を基に書類が作られ、自筆の署名も残っています。伝兵衛はトヴェルスカヤ通りにあった、当時もっとも大きな邸宅であったマトヴェイ・ガガーリン公の家の敷地内に住みました」。

スヴェトラーナさんは、もう一つあまり知られていないことがあると話を続ける。スヴェトラーナさんの話によれば、赤の広場に面して入口があるモスクワ最大の百貨店であるグムに、1917年まで日本の商店があったのである。

「3階に“タケウチ”という商店があり、帽子、絹、真珠、スカーフなどを売っていました。しかし、これは最初の日本のお店ではありませんでした。クズネツキー・モスト通りにもう1軒、“イポニカ”というもっとも大きな商店があったのです。1907年にオープンしたこの店は、トヴェルスカヤ通り24番地のサヴィノ・ストロジェフスキー修道院の地下にありました。この住所を基に日本の研究者たちはその店を探しましたが、見つけることはできませんでした。なぜなら、住宅の番地が変更されたことを知らなかったからです。現在の住所は6番地です。店を開いたのは横井喜三郎。ロシアにおける日本ビジネスの真の“帝王”です。ペテルブルクにあった日本の商品を扱う“アレクサンドラ”という高級商店で店員の通訳をして、経験を積んだ横井喜三郎は、ワルシャワを含め、11店舗を経営するまでになりました。クリミアにダーチャを買ったほどです。住んでいたのはトヴェルスカヤ通りで、妻のラウラと2人の娘と一緒に暮らしました」。

19世紀末、ヨーロッパやロシアでは日本や日本文化に対する関心が高まった。20世紀初頭に、シベリア鉄道が開通し、ロシアを通過してヨーロッパに運ばれる貨物の量も大幅に増えた。日露戦争が始まる前、ほぼすべての日本人は帰国した。しかし横井喜三郎は帰国しようとしなかった。商店のオーナーの親戚だったラウラと結婚し、モスクワに移り住んだ喜三郎は、モスクワのクズネツキー・モストで小さな商店を開いた。日本の商品は当時、とくにクリエイティブな職業のインテリ層の間で人気があった。チェーホフやゴーリキーも日本のものを愛用していたという。

スヴェトラーナさんがもう1つ教えてくれた住所が、モスクワのクトゥーゾフ大通りにあるホテル「ウクライナ」(現在はラディソン・コレクション・ホテルの1つ)。

「このホテルの915号室では、1963年から1971年にかけて、杉原千畝が仕事していました。彼はこのホテルの7階に住んでいたのです。第二次世界大戦の開戦直後にリトアニアの副領事となり、ユダヤ人たちにビザを発給しました。彼のおかげで、およそ6,000人のユダヤ人の命がナチス・ドイツの迫害から救われました。戦後、杉原千畝は外務省を退官し、モスクワで、ミシンを扱う日本の小さな企業に勤めました。彼によって助けられたユダヤ人の1人で、イスラエルの参事官となっていたヨシュア・ニシュリが1968年に彼を見つけなければ、杉原千畝の功績が誰かに知られることもなかったでしょう。ホテルの2階にある書庫のそばには、3ヶ国語で書かれた杉原千畝を記念するプレートがかけられています」。

1985年、杉原千畝は、イスラエル政府より、多くのユダヤ人の命を救出した功績で、日本人として初で唯一の「諸国民の中の正義の人」として「ヤド・バシェム賞」を受賞した。2000年に、岐阜県八百津町に杉原千畝記念館がオープンした。

ご紹介したのは、スヴェトラーナ・ミハイロワさんの観光ツアーのほんの一部分である。実際、モスクワ、ペテルブルク、その他の都市に住んだ日本人の歴史は非常に幅広い。たとえば、1960年代の初頭には「ウクライナ」ホテルのそばには外国の外交官や専門家のための居住区があったのだが、実は、皇后雅子さまも幼年時代、家族とともにその地区に住んでいた。父親の小和田恒氏が1963年から1969年にかけて、モスクワの日本大使館に駐在していたからである。また1928年から1940年にかけて、日本大使館が置かれていた富豪アルセニー・モロゾフの屋敷も興味深い。現在、この建物はロシア政府の迎賓館となっている。カラシヌィ横丁にある日本大使公邸の建物にまつわる話も非常に面白い。

スヴェトラーナさんはコロナの感染拡大予防対策による制限が解かれたあと、このツアーをロシア語と日本語で行うことにしている。

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